武士と八幡信仰(後編)

3.  武士と八幡神

3-1. 源氏と八幡信仰

 ここまで、簡単ではあるが、八幡神の発生と、軍神としての受容について述べてきた。本章からは、本稿のテーマでもある「武士と八幡信仰」について、本格的に述べていく。本稿の冒頭でも述べた通り、八幡神は武士による信仰を集めていた。武士の中でもとりわけ篤く八幡神を信仰していたのが源氏武者である。八幡神は特に清和源氏の氏神として崇められるようになり、鶴岡八幡宮はその象徴でもある。八幡神と清和源氏との関係は頼信の頃から明確になったとされている。頼信は永承元年(1046年)に、河内(大阪府)の誉田八幡神に、「八幡大菩薩(=応神天皇)は清和源氏22代の氏祖である。」という旨の告文を奉納しており、この頃から八幡神が源氏の氏神という考えが流布し始めたと見られている。[石黒 2003]本節では、このような源氏とその氏神である八幡神との関係について具に取り上げていく。

 さて、源氏と八幡神との関係について考えるときに、まず取り上げておきたいのが石清水八幡宮である。石清水八幡宮は後述する八幡太郎義家や源頼朝などの武将、そして頼朝による鶴岡八幡宮の鎮座などに関連する重要な神社である。石清水八幡宮の創始は、伝承によると貞観元年(859年)であるとされている。大安寺の僧侶、行教によって著された『石清水八幡宮護国寺略記』によると、以下のような由緒が伝えられている。

「貞観元年に南都大安寺の僧、行教は宇佐八幡宮に参籠し、神前で昼は大乗経の転読、夜は真言陀羅尼を唱えて一夏を過ごした。そして、都に帰ろうとした715日の夜半、『都の近くに移座し、国家を鎮護せん』と託宣を受けた。その後、平安京に近い山崎のあたりまで帰ってきたところで、『移座すべき処は石清水男山の峯なり、われそこに現れん』と再び託宣を受けた。行教が驚いて、南方に向かって百余遍八幡神を礼拝すると、山城国の東南の山頂に、光が満ち輝いた。翌朝、行教は山頂で3日にわたって祈祷し、そこに仮社殿を設けた。そして、この一件を清和天皇に上奏したところ、直ちに宝殿の造営が始まり、貞観2年に完成し、鎮座した。」[新谷 2021 pp.121-122

 その後、石清水八幡宮は清和朝において、王城鎮護の守護神として重要視されるようになった。例えば、承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)や文永・弘安の役(元寇)などの国家を揺るがす軍事的危機に際して、朝敵・異国降伏のために熱心に祈願されている。鎌倉時代の『八幡愚童訓』では、石清水八幡宮を「百王鎮護第二の宗廟」、つまり伊勢神宮に次ぐ第二の、天皇家の祖先を神として祀った神社として位置づけている。[新谷 2021

 この王城鎮護の神社が源氏武士と深く関わりを持ち始めたのが源頼義・義家父子の頃である。特に、「八幡太郎」としても知られた猛将、源義家と石清水八幡宮には切っても切れない縁がある。源義家は清和源氏の中でも特に武門の誉れ高き河内源氏の家系に連なる源頼義の長男として生まれた。義家の生誕にまつわる伝説には次のようなものがある。父頼義が石清水八幡宮に参詣した際、霊夢によって一振りの宝剣を得た。そして、その月に妻が懐胎し、生まれたのが義家であるという。また、義家の通称である「八幡太郎」の由来については、義家が7歳の時に石清水八幡宮で元服したことにちなんでいるとされている。異説では、鳥海の戦いにおいて義家の騎射の腕前が神懸っていたので、夷人が驚きのあまり「八幡太郎」と呼称するようになったとも言われている。実際、義家の勇猛さと武芸の腕前は相当のものであったらしく、藤原宗忠の日記『中右記』では、「天下第一の武勇の士」と評されているなど、存命中から義家の武勇は天下に轟いていた。前九年の役、後三年の役などの戦いで活躍を果たした義家は没後、超人的な活躍をした人物として伝説化していき、様々な軍記物語や説話などで描かれることになった。また、義家が通過、滞在した地域には、義家が戦勝祈願のために石清水八幡宮の神霊を勧請したといった伝説を持つ神社が多数ある。[豊嶋 2003

 石清水八幡宮と並んで、源氏と八幡神との関係を象徴しているのが、神奈川県鎌倉の地に鎮座する鶴岡八幡宮であろう。まず、『吾妻鏡』に記された鶴岡八幡宮の由緒を紹介しておく。源頼義が安倍貞任と争った前九年合戦にて、氏神を祀る石清水八幡宮に祈願し、無事勝利した。そこで、石清水八幡宮を勧請し、相模国由比郡に源氏の氏神として祀った。これが鶴岡八幡宮の原型となった社である。その後、義家が修復したとも言われる。頼義が建てた社の旧跡は、現在の鎌倉市材木座1丁目にある本八幡宮であると伝わっている。その後時代が下り、源頼朝が治承四年(1180年)、平家打倒のために平家一門である伊豆国目代山木兼隆を討ち、石橋山にて旗揚げをするが、敗走。安房国に逃れるが、千葉常胤に相模国に戻るよう諭され、相模に赴いた。そして同年、鎌倉に入り、当地を本拠地とした。頼朝が鎌倉に入ってすぐに、小林郷の北の山、現在の若宮のあたりに鶴岡宮を遷し、「鶴岡八幡宮新宮若宮」と称した。遷宮当初、宮のあたりは茨が生い茂った見苦しい場所であったので、頼朝は立派な社殿の建立や周辺の整備を進め、鎌倉を本拠地として発展させていくこととなった。しかし、神社の整備が進みつつあった建久二年(1191年)2月の大火により鶴岡若宮が灰燼に帰してしまった。また、その後も幾度も火災や地震が起こり、社殿などに被害が及んでしまうことがあった。だが、源氏の氏神としての神威を保つため、災厄による被害が及ぶ度に修復されて、鶴岡八幡宮は現在までその姿を残しているのである。[芝田 2003

 頼朝が鶴岡八幡宮を鎌倉後に鎮座させ、源氏の氏神として篤く信仰したことによって、八幡神の神威は周囲の御家人にも影響を及ぼした。当初は源氏の氏神として祀られていた八幡神が、いつしか源氏以外の御家人も信仰するようになり、単に「源氏の氏神」という性質だけではなく、「武門鎮護の守護神」という性格も加わって普及していったのである。本稿の冒頭で引用した、那須与一の心願からも、御家人による八幡神への信仰心が垣間見えるだろう。また、武士たちが守護・地頭として地方に下向した際に、鶴岡八幡宮の神霊を任地へ勧請することで、更に八幡神の「武神」としてのイメージが強化されることとなったのである。[郡 2003

 

3-2. 武芸と八幡神

    最後に武芸と八幡神との関係について述べて、本稿の結びとしたい。八幡神に武神としてのイメージが付与され、武士の守護神的役割になったことは前節ですでに述べた。武士が八幡神を「武神」として各地で祭祀したことにより、八幡神は武芸武術の神としても崇められるようになった。

   特に、鶴岡八幡宮は室町時代になると、常陸国の鹿島神宮、下総の香取神宮と肩を並べるほどの剣術の聖地となっていった。鶴岡八幡宮で武術の鍛錬、流派興起した者の中には、中条流の中条出羽守長秀や、夢想流杖術の夢想権之助などもいたとされる。[郡 2003

   最後に、武芸に関連する関東地方の八幡神社をいくつか紹介して本稿を締めくくりたい。

  ・富岡八幡宮(東京)

   徳川家(源家)の氏神として栄えた。徳川中期頃までは流鏑馬を行っていた。また、江戸相撲発祥の地としても知られており、三代将軍家光がしばしば観戦に訪れた。

  ・大宮八幡宮(東京)

  源頼義が石清水八幡宮を勧請し、創建したとされる。江戸時代になっても武家の信仰を篤く受け、武術上達を祈願する武士の参拝が絶えなかったという。現在でも、正月の2日には、小笠原流弓術による大的式が古式に則って行われている。

[郡 2003

   ・穴八幡宮(東京)

   康平年間(10581065年)、源義家が東北遠征の道中、戦勝を祈願して創建。寛永十八年(1641年)、弓組頭の旗本が境内に弓の的場を築き、射芸の守護神として京都の石清水八幡宮を勧請した。現在でも流鏑馬行事が行われている。

   ・平塚八幡宮(神奈川)

   建久三年(1192年)、源頼朝が妻、政子の安産祈願を願って神馬を奉納した。鎌倉幕府の崇敬も篤く、その後も永く武門の崇敬を受け、天正年間には徳川家康による社参、社殿造営もあったとされる。

[曾我 2003

 

  以上、少数ではあったが、関東地方における武芸に縁がある八幡神社を紹介した。箇条書きで味気ないものだが、その点は容赦していただきたい。これら神社の他にも武芸に関連する八幡神社はまだまだたくさんあるかもしれない。是非、今後の神奈川県の武道史研究で調査を進めていきたいと思う。

 

4.  おわりに

  本稿では、「武士と八幡信仰」というテーマで、八幡神の「軍神」「武神」としての側面について調査、叙述してきた。第2章では「八幡神とはなにか」をテーマとして、八幡神の発生、そして軍神としての受容について述べ、続く3章では「武士と八幡神」を題材として、源氏武者を中心とする武士による八幡神への崇敬、そして武芸の神としての八幡神のイメージについても述べてきた。今回は主に、八幡神研究を為してきた先哲の先行研究を利用した文献調査を基に筆者の思うままに述べてきたのだが、何分浅学非才の身の上、多くの箇所で事実誤認や誤謬もあるかと思う。また、筆者による稚拙な文章において、理解しがたい点も多くあっただろう。それらの点については、是非皆様方からのご批判やご鞭撻を賜りたい。

  さて、今後の展望であるが、今回は文献のみによる調査であったため、次回は文献に加えて実地での調査を行い、更に八幡信仰と武士・武芸との関係を詳細に調査していきたい。具体的には、鶴岡八幡宮はもちろん、その他文献を調査して、かつて武士や武芸者からの篤い信仰を集めた八幡神社、その他の神社についても調査をしていく所存である。 

 

参考文献

・石黒吉次郎「源氏と八幡信仰」(神社と神道研究会『八幡神社―歴史と伝説―』勉誠出版,2003年)

・郡順史「武道と八幡神」(同上)

・芝田泰典「鶴岡八幡宮」(同上)

・新谷尚紀『神社の起源と歴史』吉川弘文館,2021

・曾我惠里加「関東地方の八幡信仰」(神社と神道研究会『八幡神社―歴史と伝説―』勉誠出版,2003年)

・豊嶋泰国「八幡太郎義家」(同上)

2023/04/01 サトシ