1. はじめに
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。」これは、「平家物語」屈指の名場面の一つである「扇の的」の段において、那須与一が心のなかで祈念した言葉である。源平屋島の合戦で、源氏らの急襲を受けた平家方はほうほうの体で海上へと逃げ出した。日暮れまで両軍は戦い続け、そろそろ軍を引き払おうかというところで、海上から平家方の小舟が漕ぎ寄せてきた。船には平家の女官が乗っており、扇を竿の先に立て、手招きをしている。源氏方に、「扇を射抜いてみよ」と挑発しているのである。意図を悟った源氏方は、その役に那須与一を当てた。与一は馬に乗って海に入り、件の心願を立てて矢を放った。すると与一の放った矢は見事扇に命中し、与一の名誉は保たれたとともに、優れた射手として彼の名声が広く天下に知れ渡ったのである。
上述した「扇の的」で筆者が着目したいのは、与一が神仏に祈りを捧げる際に、「南無八幡大菩薩」と真っ先に八幡神の名を挙げている点である。武芸に関する神として我々が一般に想起するのは鹿島神宮の祭神である武甕槌命や、香取神宮の経津主命などであり、八幡神を連想することはあまりないのではないだろうか。少なくとも筆者は武道や武芸で成果を挙げたいと願ったときに、すすんで八幡神社に参拝しようと思ったことはない。筆者にとって、八幡神には武芸の神ではなく、地域の鎮守というイメージしかないからである。しかし、扇の的では与一は真っ先に八幡神の名を挙げて、矢の命中を祈願している。何故であろうか。それは与一を含む当時の武士が篤く八幡神を崇め奉っていたからである。これは、取りも直さず、八幡神が「軍神」や「武芸の神」としての神格を付与されていたということを意味する。
本稿では、そのような「軍神、武芸の神としての八幡神」という点に着目し、武士と八幡信仰との関わりについて、筆者が文献などを利用して調査した結果、理解したことを述べていきたい。まず、2章では、「八幡神とは何か」をテーマとして、八幡神の発生と「軍神」としての受容などについて記していく。続く3章では、「武士と八幡神」と銘打ち、武士と八幡神との関係性について述べていきたい。なお、本稿で利用した参考文献は、巻末にまとめて記載する。
2. 八幡神とは何か
2-1. 「辺境の神」の出現
まず、この節では八幡神の由来について述べていきたい。八幡神の由来については、様々な説が存在する。それらの多くは、「八幡」という言葉の語義から八幡神の発生を考察しているものである。我々は「八幡」を「ハチマン」と呼ぶが、奈良時代までは「ヤハタ」と訓じていたとされる。[曾我 2003]この「ヤハタ」が何に由来するかについては議論が分かれている。主な説を列挙すると、次のようなものがある。
(1)地名由来説
かつて豊前国宇佐郡に八幡という地名があり、その地に神が鎮座して、八幡神と呼ばれるようになったとする説。
(2)焼畑由来説
ヤキハタが転訛しヤハタになったとする説。
(3)仏教の安鎮法由来説
息災を祈願する安鎮法と呼ばれる密教の修法に用いられる八流の幡に由来するという説。
(4)秦氏由来説
八幡神が大陸文化と関係を持つことから、渡来系氏族である秦(ハタ)氏と結びつける説。
[西郷 1983]
以上、八幡神の由来に関するいくつかの説と簡単な説明を述べた。繰り返しになるが、八幡神の由来に関しては様々な説があり、また、それぞれの説に反論や批判が存在しているため、決定的な論はいまだ定まっていない。
次に、八幡神がいかにして発生したのかについて述べていきたい。『八幡宇佐宮御託宣集』や「弥勒寺建立縁起」などによると、八幡神は6世紀半ば頃に豊前国宇佐の地に出現したとされる。当時の豊国は、中央政府の支配が及ぶ地域と及ばない地域との境界であった。豊国の南には隼人と呼ばれるヤマト王権にとっての夷狄が存在しており、朝廷に対する反乱が起こったり、527年には筑紫(福岡県)の国造である磐井が反乱を企てたりと、6世紀半ばの九州地方は完全にはヤマト朝廷の力が及んでいない地域であった。そのような、いわば「境界の地」に出現したのが八幡神であった。伝承によると、この八幡神の出現には大神比義と辛島乙目と呼ばれる人物が関わっている。まず、大神比義であるが、比義は宇佐八幡宮の神官大神氏の始祖に据えられている人物である。大神比義は欽明天皇三二年(571年)に豊前国と豊後国の国境にあった御許山山麓のほとりにある菱形池で3歳の童子として出現した八幡から託宣を聞いたとされる。また、辛島乙目は敏達天皇の御代に、宇佐菱形山の北の海のあたりで祈り、八幡の託宣を聞いたとされている。その後、和銅三年(710年)に、大神比義と辛島乙目は宇佐の駅館川のあたりに鷹として出現した八幡神を三年間祈り鎮座させ、宮柱を建てて最初の八幡社である鷹居社を建てたとされる。[飯沼 2004]この大神比義と辛島乙目の伝承は、あくまで神話的な話であり、すべてをそのまま信じることはできないものの、八幡神の発生と大神・辛島の両氏が深く関わっていたのは事実のようである。元々、宇佐の地には、御許山の山頂に鼎立している三巨石を対象とする磐座信仰があった。この巨石信仰は、土着の豪族である宇佐氏を中心として行われていたと考えられており、これに渡来系氏族である辛島氏が当地で祀っていた神と、大和からやってきた大神氏などが複雑に関与しながら辺境の地で誕生したのが八幡神であると推測されている。[新谷 2021]
2-2. 「軍神」としての八幡神
前節で八幡神が発生した時代の九州地方はヤマト政権の支配が完全には及ばない不安定な辺境の地であったということを述べた。先述した通り、その不安定さの要因には隼人と呼ばれる、まつろわぬ民の存在があった。朝廷は隼人の居住する地域を支配下に置くために、714年、大隅国(鹿児島県)に豊前国から200戸を入植させる。当時の入植者には、多くの渡来系氏族が含まれていたと推測されており、彼らは入植キャンプとして辛国城を建設した。そして、この辛国城にも八幡神が降臨している。『託宣集』には、「辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり」[飯沼 2004 p.19]と記されている。辛国城の八幡神は、大隅国への入植民と、土着民である隼人との緊張関係や争いの中で生まれ、幡、即ち軍旗に降りた神であると推測される。つまり、八幡神は当初から「軍神」としての側面を有していたのである。例えば、養老三年(719年)に隼人が蜂起した際、反乱鎮圧のために八幡神が奉じられている。前述した714年の入植は隼人との間に軋轢を生み、719年に隼人の大乱を誘発した。入植民の拠点であった辛国城も攻撃の対象となった。隼人の襲撃を受ける辛国城を救援するために、豊前国国司の宇奴男人が援軍として向かったのであるが、その際に八幡と呼ばれる神を豊前の兵士が奉じていたと『託宣集』に記されている。ここでも、「軍神」としての八幡神が現れているのである。[飯沼 2004]
ところで、前節で八幡神が豊国という辺境の地に住まう大神氏や辛島氏のもとに降臨したことを述べた。そして、本節でも八幡神が辛国城に降臨したことを確認している。これら各地に降臨した八幡神が果たして同一の神だったのであろうか。歴史学者の飯沼賢司は、各地の八幡神が当時からと同一の神と考えられていたわけではなく、養老年間に起きた隼人の大乱を契機として、前節で主に述べた、宇佐の「境界の神」や今節で説明した、大隅国辛国城の「八流の幡に降り立った神」などの「原八幡神」が結合し、現在に伝わる「八幡神」が形成されたと推測している。[飯沼 2004]そして、隼人の反乱が鎮圧された後、神亀二年(725年)に、現在の宇佐神宮の原型である社殿が、小倉山に造営されたのである。
隼人の大乱で確立された八幡神は、その後、宇佐という一地域の神ではなく、国家を守護する「鎮護国家の神」へと変化していった。そして、その過程で祭神も変化していくことになる。天平三年(731年)、比売神という神が、自分は八幡神を助ける神であると託宣し、八幡神と共に祭祀されるようになった。また、弘仁十四年(823年)には、神功皇后も祀られるようになる。さらに、神功皇后の子である応神天皇も併祀されるようになり、その後八幡神と応神天皇が同一視されるようになった。なぜ、このような八幡宮の祭神の増加や変化が発生したのだろうか。その背景には、朝鮮半島の国家であった新羅との関係悪化がある。9世紀、新羅の国内状況が不安定となり、反乱が多発し、飢饉が発生した。新羅国内の混乱により、多くの流亡民が日本へと渡来することとなった。日本は当初、新羅人を受け入れていたが、弘仁十一年(820年)に、渡来した新羅人の反乱が駿河・遠江で起こったことを契機に、新羅人の受け入れを抑制するようになった。また、当時、海賊的行為を行う新羅人が増加していた。これらの出来事によって、日本人の新羅人に対する排外意識が高揚し、そして、そのような対新羅感情の悪化に伴って登場したのが、三韓征伐の神話で知られる神功皇后と、その子供である応神天皇である。つまり、神功皇后と応神天皇を対新羅神として八幡神に仮託したのである。[飯沼賢司 2004]このようなことからも、国家を護る「軍神」としての八幡神の側面を垣間見ることができる。
参考文献
・飯沼賢司『八幡神とはなにか』角川書店,2004年
・西郷信綱「八幡神の発生」(中野幡能編『民衆宗教史叢書 第二巻 八幡信仰』雄山閣出版,1983年)
・新谷尚紀『神社の起源と歴史』吉川弘文館,2021年
・曾我惠里加「関東地方の八幡信仰」(神社と神道研究会編『八幡神社―歴史と伝説―』勉誠出版,2003年)
2023/03/01 サトシ