貫汪館 横浜支部稽古

刀袋を担いで家を出ると、外はもう真っ暗です。

コートを着ていても、冷たい風が身にしみます。

 

新しい方は今週は用事があるとのことで、来週から参加予定とのことです。

 

今回は、大石神影流から稽古することにしました。理由はいくつかありますが、
集中力のある前半のうちに、
  前回の特別稽古に基づいて基本から復習をしたかった、
   三学円之太刀の稽古をしたかった、
     体育館が冷え切っているのでウオーミングアップを兼ねて、
      最初に立ちで動いた方がそけい部が弛む、
       ただの気分転換、

などによります。

 

特別稽古では、構えから徹底的に注意を受けました。
 真剣、上段、下段、附け、脇中段、脇下段、車

“構え”というと“剣の位置”というふうに理解しがちです。
構えの名称も、上とか下とか脇とか言います。
でも実際は立ち方が大事ですし、その構えになるための動きはもっと大事です。
動いた結果、その立ち方になりますし、剣もその位置になります。
決して、剣をその位置に置くことが目的ではない。
剣はたまたま、そこに位置するに過ぎない。待つ構えではなく、斬るための構え。
打太刀は手数の上ではその場で待ちますが、それでも待っていてはいけない。
斬るつもりで構えなければいけない。
また“構え”ができても、それが動きの中でできないといけない。活きてこないといけない。
構えのための構えになってはいけない。
---------------------------------
試合口


右足を半歩踏み出して、剣を抜いて中段に構える。
右足から三歩進んで、剣を合わせて位を見る。

そして、ここから手数の稽古、ではなく。
真剣に構えて、三歩進むときから、すでに稽古です。
真剣の構えが、歩みの中でもきちんとできているかどうか。
私は、構えのときにはできていても、歩き出したとたんに正対してしまう癖があります。

 

講習会後、通勤の行き帰りに歩いていて気付いたことがあります。
要は歩き出したとたんに、さあ行くぞ、と気負いが生じてしまうということです。
無意識ですが、きちんと正対して立ち向かう、という価値観が残っているようです。
歩み出しても、心のありようは、常と変わるところがあってはいけない。
構えは、かっこいいポーズを決めるためのもの、ではありません。
半身で構えたのであれば、そのままするすると動かなければいけない。
大石神影流は、真向正対して立ち向かう流派ではありません。

 

もう一つは、そけい部の弛みを、腰を落とすことと同義程度にしか認識していなかった、ということです。
腰が落ちるのは、そけい部が弛んだ結果の一つに過ぎません。
そけい部が弛めば、上体は足の開き具合に応じて自然に半身になります。
そけい部が弛めば、動きはすべて肚を中心としたものになります。
そうなれば、心の働きも、きっと変わってくることでしょう。
頭が中心か、胸が中心か、肚が中心かでは、すべてが根本から違ってきて当然のことかと思います。

館長からは、そけい部を弛めることが最大の課題、と教えを受けていました。
しかしそれなのに、一面的な理解しかできていませんでした。
それぞれ繰り返し指導を受けていながら、一つのこととして理解ができていなかった。深く反省しなければなりません。

 

位を見る動きも、肚を中心とした動きです。
もちろん、請ける動きも、張る動きも、肚を中心とした動きです。

 

突きも、手先の力ではありません。体全体が動いた結果にしか過ぎません。
肩に力みが入る必要は、ない。
刀は触れれば斬れるように、突けば刺さります。
防具稽古で、軽く軽く面に突き込み、あるいは突き込まれると、その威力を実感します。
ぎゅっと握りこんで、肩を締めて、体を固めて、という必要はまったくありません。

 

昔、戸山流の道場にお邪魔して、試し斬りをさせていただいたことがあります。
20年くらい前だったでしょうか。
・・・と思って稽古録を確認したら、10年ちょっと前でした。平成13年11月30日。
ちなみに、初めて試し斬りをしたのは、平成5年1月30日でした。
試し斬りは、昔、ご縁があって、間を置いて何度か経験させていただいたことがあります。
戸山流の道場で、それ以外で。畳表、竹藪の竹。型通りに、自由に。
試し斬りと言っても、もちろん試刀ではありませんし、据え物斬りでもありません。
巻いた畳表を立てたものを、戸山流の型通りに斬ります。
戸山流には、諸手正眼で突き込む型がありました。
単純な動作ですが、意外に難しかったことを覚えています。
中心にきれいに刺さるかと思いきや、少し外れたところに刺さりました。
外さないようにと、ぎゅっと握り込むと、剣先は逆にぶれてしまうようでした。
そして少し力を入れただけで深々と突き刺さって抜けなくなってしまい、

次の動作に移ることができませんでした。
どこを突くにしろ、マンガのように切っ先が後ろまで突き抜ける必要はありません。
数センチ斬り込めば用は足りるように、数センチ突き込めば十分用は足りることでしょう。

 拳で斬れ、鍔元まで突き込め
との教えは、間合いの心積もりのことかと思います。
私が初めて試し斬りをしたときには、切っ先が表面をかすめるだけの結果となりました。
実際に斬れる間合いは、当時の私が思っていたよりもかなり近いものでした。
組太刀は剣と剣の間合いのものと、寸止めの間合いのものの両方を散々に稽古していたのですが。
二回目以降は、とくに問題なくすぱすぱと斬れました。
ただ、斬り専門の方々のように、太いもの硬いもの高速で飛来するものを斬ったり、連続して見事に華麗に斬り捲くる、というのはやったことがありません。
小豆や蝋燭の芯や米粒を抜き付けで斬る稽古、はしなければと思ってはいますが。

 

斬る、切る、截る、伐る、剪る、斫る、鑚る。
「きる」という漢字は、普通に表示できる文字だけでも、これだけあります。
古い本では「剸」という字もよく見ます(表示されないかもしれません)。
それぞれ違いがあるのでしょうが、現代ではそもそもほとんど使うことがありません。
中国武術では、同じ「きる」でも文字によって何種類も使い分けをします。
それを翻訳することはほぼ不可能なので、そのまま使うことが多いかと思います。
#ちなみに私の知る限りでは「斬」は「首を水平に斬る動作」限定の表現です。

 

すっかり話がそれてしまいました。

 

残心を取って、元の位置に戻ります。始めと同じように、これも稽古です。
きちんと真剣に構えたまま、下がることができているかどうか。

そしてこう言葉にすればするほど、構えという形に固着してしまいそうで、こわい。
文章はものごとを明確にするという利点がある一方、その不完全さゆえに誤解も生みます。
動作を文章化したとたんに、生き生きとした動きの大半は失われるような気がします。
まして、文章を元に稽古するようなことがあれば、文章が詳しければ詳しいほど、不完全なデッドコピーとなるような気がしてなりません。
その文章が、動きを100%完璧に記述しているプログラムであれば話は別ですが。
けっきょくは、師から弟子への直伝しかないのではないでしょうか。
文章は、あくまで備忘録程度のもの。稽古録は、自分の稽古を整理するためだけのもの。
説明文から実技の再現をするには、かなりの素養が必要になることでしょう。
逆に言えば、その人の素養に見合った程度のものしか再現ができない。
現代的な発想では、現代的な解釈しかできないことと思います。
現代的な体では、現代的な動きしかできないことでしょう。
現代的な動きで、昔の業を再現したとして、それははたして昔の業と言えるのかどうか。

 

右足を踏み出し向へ抜付打込み扨血振し立時足を前の右足へふみ揃へ右足を引き納る也
あ、これは違った。

 

さてさて、一番最初に習った試合口の一本目だけで、どれだけの稽古ができることか。
二本目、三本目、あとはすべて応用で、多少の違いがあるだけです。
初めてまともな稽古をした気分で、試合口五本を終えました。
---------------------------------
陽之表

 

よう剣
上段に構えます。腕先で剣を持ち上げるのではなく、肚から動かねばなりません。
途中までは肚で上げることができても、途中から腕と体が分断されてしまいます。
腕が上がるのにつれて重心も上がってしまいます。逆に下がらないといけない。
脂汗をかきながら、やっと上段になります。やれやれ、今まで何を稽古していたのやら。
三歩進みます。はたして、きちんと上段の構えのまま歩むことができているかどうか。
気持ちは常と変わるところはないか。待ちになっていないか。
そして、やっと、まっすぐに打ち込みます。リアルストレート、リアルセンターです。
少しでも歪みや力みがあれば、斬り結びで勝つことはできない。
そして、気合を掛けながら、肚で押さえます。
縁を切ることなく、油断することなく、元に戻ります。

ふー、やっと一本目が終わった。

 

一本々々、一から再確認です。
よう剣、げっ剣、無二剣、二生、稲妻、太陽剣、正當剣、無意剣、乗身、千鳥
ふー、やっと表十本が終わった。

 

続いて、陽之裏。
勢龍、左沈、十文字、張身、夜闇、乱曲、位、極満、大落、白虎
なんとか十本。
より、大石神影流らしさ、内面的な要求が高くなります。

 

そして、三學圓之太刀
手数としては単純です。個人的には、陽之表と陽之裏よりもよほど覚えやすい。
順番も、技法内容を分析した結果としては、とても合理的な構成になっています。
しかも動きやすい。と思うのは、稽古の浅さゆえの浅はかさなのか。

試合口、陽之表、陽之裏は、初めて神が入った稽古となったような気がします。

ですが、三學圓之太刀の稽古はさすがにまだそこまではできず。
次の動作が出て来ずに思い出したりすることがあると、当然、気は切れてしまいます。稽古を積もうと思います。

 

集中した稽古で疲れて、ちょっと一休み。

---------------------------------

無双神伝英信流の稽古に入ります。
正座、歩法、斬撃の稽古は省略しました。
大森流、英信流表、英信流奥、太刀打、詰合、大小詰
さらさらと流します。昔取った杵柄、勝手知ったるなんとやら。違うか
太刀打と詰合は、講習会で指導された部分に気を遣います。

 

大石神影流のことばかり書いて、無双神伝英信流のことはさらっと。
いつもと逆ですね。これも特別稽古の効用の一つでしょうか。
合宿などにも同じような効果があると思います。集中した稽古

 

さて来週。楽しみです。

H25.12.12