貫汪館 横浜支部稽古

前回の審査のDVDを呉中央支部長が送ってくださったので、じっくりと見ました。
館長に注意された点が、自分でも客観的にとてもよくわかります。
そけい部のゆるみはだいぶよくなったけれども、まだまだと。
たしかに、まったくまだまだだなととてもよくわかります。
目付けが低くなりがちなのも、相互に悪影響します。
自分では無駄な動きをしていないつもりでも、ときどき変な力みが見えたり。
勢中刀や虎乱刀の振りかぶりで腰が浮くのがなさけない。
袴さばきもきちんとできていない。粗雑さが目立ちます。羽の軽さにはほど遠い。

 

こんな業を皆に見られていたと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしいです。
もっときちんと稽古しなければと強く思いました。

人の目を気にすることも、多少なら稽古の役に立つこともあるかもしれません。

自分以外でも、一緒に写っている方、別の組の方、同段位の方、低段位の方、居合だけの方、柔術も稽古されている方、若い方、高齢な方、いずれも違いがあり、いずれもとても参考になります。

 

基本を再確認しながらの稽古となりました。
業を始める前の間を長めに取り、終わってからも長めに間を取る。
動き始める前にあそうだったと気付くこともあるし、終わってから反省することもできる。
意識できなかったとしても、脳内の情報整理になるような気もします。
体をコントロールするのは脳であり、それはつまるところ情報であり、高度で複雑な情報処理のことを心と呼ぶのかもしれません。

できるだけノイズはなくしたい。フラットにしたい。シンプルにしたい。

 

いずれにしろ、独り稽古のときはやり直したり繰り返したりせず通すようにしています。

繰り返しも大事な稽古ですが、もう一度やればいいやという甘えの原因にもなりやすい。

できなかったことはできなかったと強く心に刻んでおき、次に活かす。
先達の遺してくれた形とその順番には、深い想いと、深い考えを感じます。
通すことで体になにかが残るような気がします。
ただもし少しでも、できなくてもいいやという甘い考えがあると、通しはなんの意味もない稽古になってしまいます。
というよりも、それは稽古とは言えない別のなにかのような気がします。
感じることと考えることが、稽古では大事な気がします。

回数は最低必要前提条件として。
と言いながら、初発刀だけ1時間とか、抜き付けだけ1時間とかもやりますが。
ただ一度それをやり出すと、いつまでもきりがなくて他の業が稽古できなくなってしまうのが少し困ります。

 

無双神伝英信流
大森流、英信流表、英信流奥までを一息に通しました。約40本を約40分。
間をたっぷりと取りながら。
この数日は涼しくなって寝冷えに気を付けていましたが、週末また暑くなりました。
まだ汗をかく暑さですが、途中で水分補給の必要もありませんでしたのでだいぶ楽です。
扉も3つのうち2つだけ開けてあります。虫の声が涼しげです。
太刀打、詰合。あわてず落ち着いて、相手を想定しながら動きます。肚を意識。
大小詰、大小立詰。するすると動くように心掛けます。

 

大石神影流
試合口、陽之表、陽之裏、鞘ノ内。
審査で上手くできなかったところは、習熟が甘いということです。意識して稽古。
週末夜の住宅街なので、気合を出せないのがもどかしいです。

心の中で気合を掛けます。
大石神影流の手数と比べると、無双神伝英信流の太刀打や詰合はシンプルに感じます。
大石神影流の手数は、お互いの駆け引きのようなものを感じます。そこが肝なのかなと。

 

今回は、半棒と六尺棒は稽古しませんでした。

審査の振りかえりに集中したかったのです。

英信流奥と大石神影流の鞘之内が、なんだか違和感があったのはそのせいかと思います。

頭と心が一致していなかったからかと。ケガがなくてよかったです。

こういうときは、不慮のケガをしやすいものです。

 

一昨晩は中秋の名月で、きれいな満月でした。
必ずしも満月ということではないそうですが、たまたま3年続けで満月だったそうな。
今晩は右上が少し欠けているように見えました。でもとてもきれいな月でした。

H25.9.21