貫汪館 横浜支部稽古(県立武道館)3/3

棒を置いて汗を拭き、水分補給をして無双神伝英信流の稽古に入ります。

 

正座して帯刀。刀を体の一部とし、息を床から吸い、床に戻します。
大森流、英信流表、奥の約40本を一息に通します。
そけい部をゆるめ、肚から動くことを意識します。
稽古に遣っている真剣には樋は入っていませんが、それでも静かな部屋では風切り音が聞こえて、 気を奪われることがあります。
道場ではさすがに風切り音は聞こえませんので、純粋に運剣斬撃に集中することができます。
しかし逆に、いろいろな雑音も聞こえてきます。
開け放した扉からは廊下を行く人の気配がわかりますし、わずかの間ですが見物していく人も。
静かな中で集中できるのは当たり前なことで。
でも兵法として考えた場合には、そんなことばかりも言っていられません。
かと言って、聞こえないふりをして無視していると、小さな子が走り込んでくることもあります。
なにかあってからでは、気付かなかったではすまされません。
まわりには注意を払いつつ、それでも邪魔をされないこころの働きが必要かと思います。
一般に言われる集中力とは少し違うような気がします。透明な感じです。
早抜きはせずに一々仕切り直して間を取りますが、それでも30分ちょっとで抜き終わります。
刀身をネル布で拭うと、ほんのわずかですが茶色くなりました。もう赤錆が出たのでしょう。
よく拭き取り、別のネル布で薄く油を引きます。

 

続いて太刀打、詰合。
いつもは鞘木刀ですが、真剣でやってみました。もちろん相手なしでです。
剣術の稽古では、もちろん実際に相手を斬るわけにはいきません。
寸止めにするか、届かない距離で空振りするか、実際に打つのであれば、防具を着けて、 刃引き、木刀、竹刀、袋撓、スポンジ刀などで真剣の代用ということになります。
寸止めだと止めることに意識が行きやすく、空振りでは実際の間合いと違い、防具ありではうんぬんかんぬん。
いずれも稽古方法であり、それぞれ一長一短があることかと思います。
素抜き抜刀術では長い刀を遣い、相手がいるときには定寸の木刀というのも気になるところです。
いつも遣っている刀で、いつものように動いてみます。
抜刀納刀はもとより、斬撃も問題ありません。
相手なしですから、止めることなく、留めるに任せることができます。自然な動きになります。
ただ、晴眼に構えていると刀がだんだん重く感じられてきます。高山や肩では問題ないのですが。
まだ肚ときちんとつながっていないということなのでしょう。

 

大小詰、大小立詰は、相手がいる方が稽古がしやすく感じます。
きちんと業が身に付いていれば、自分一人でも動けるはずなのでしょうが。
勢いをつけて腰を上げて体を固めて水平回転、などという動きにならないように注意します。

腰に帯びているのが鞘木刀ではなく真剣ですと、やはり意識が変わってしまいます。

普段、それだけ真剣に稽古していないということなのだなと反省しました。

 

最後に大石神影流の稽古です。
やはり真剣で稽古してみました。流儀の木刀の定寸とほぼ同じ長さです。
試合口、陽之表、陽之裏。刀が動きを導いてくれる感じがします。
とても手先では振れる長さ重さではありません。肚で動くことを意識します。

安心して振り切れるのがとてもいい感じです。

 

最後に鞘之内五本を抜きました。とてもシンプルな形で、抜き打ちに特徴があります。
手先で振っては、止められるものではありません。

油断すると上手く留まらず、それを手で止めようとして自分で体勢を崩して。悪循環です。

心をリセットして、肚で動くことを心がけます。自然にすっと留まります。

 

真剣の手入れをして、モップ掛けをして、着替えて終了しました。
荷物を片付けていると、小さな女の子がパパーと言いながらとたとたと駆け寄ってきました。
なんと返事してよいものかわからずに黙って見ていると、目が悪いのか、だいぶ近くに来てから 違うと気付いたようでまた走って戻って行きました。
小さな子がとたとたと走るのは、床反力の前後分力より垂直分力の方が大きいからだと昔テレビでやっていました。幼児の歩行と走行の発達というテーマだった気がします。
子供はハイハイからはじめて、つかまり立ち、二足歩行、走行、と運動を発達させていきます。
自分の膝の高さもあるような階段を日常的に上り下りします。
自分の何倍もの身長の大人に手を引かれて同じ速度で歩きます。

 

大人は歩くという行為には何十年ものキャリアがありますが、一般的には子供ほどには一生懸命には歩いていないような気がします。

もしも、子供と同じような純粋さ、一生懸命さで、歩くという行為を見つめ直すことができれば、もう少し上達できるような気がします。

H25.8.5